人間を自覚する・・・とは?

欲求について ――― ※ やりたい 欲しい
「やりたい」と思ってもできないことがある。「欲しい」と思っても得られないことがある。
「やりたい 欲しい」を実現するためにする行為を、「やりたい」と思うことがある。
例えば、「傷みを抑えたい」を実現するために医者に行く。「医者に行きたい」と思うことがある。
「医者に行きたい」というのが「やりたい」訳ではないから、「間接的欲求」とでも言おうか・・・。
・・・を修理したい、ご飯を炊きたい、掃除をしたい、洗濯したい、・・・などなど。

人に対して「欲しい」と思う欲求について ――― ※ やって欲しい やめて欲しい
「やって欲しい」「やめて欲しい」と思っても、そうならないことがある。
「やって欲しい」「やめて欲しい」を実現するためにする行為もある。
「やる」とか「やめる」のは、その人であって、「欲しい」と思う人ではない。
自分が相手の人に「欲しい」と欲求する。欲求を受けた相手の人の意志で行動する。
相手の人が自分に「欲しい」と欲求する。欲求を受けた自分の意志で行動する。

自分も、相手も、人と人の欲求・意志は同格。
「やる」のも「やめる」のも、その人の意志・行動によるもの。
「やって欲しい」「やめて欲しい」という思いを受けての行動はある。
「やらせる・やめさせる・やらされる・やめさせられる」・・・ あり得ない。

規則・法律・契約・権利・義務・責任・ルール・マナー・戒律・・・
これらは全て、人が人に対する欲求から生まれたものでしょう。
誰かの欲求ではないような大きな強制力が存在するかの如く観念づけているのでしょう。
元々、人が人に対する「欲しい」という欲求から生れたのだから、誰の欲求とも対等・同格ですね。
誰が、誰に対して、「やって欲しい」「やめて欲しい」と思ってできたのでしょう?

やらなければならない・やってはいけない・やりなさい・やめなさい
そんなことするもんじゃない、そんなこと言うもんじゃない、
そうするのが当然だ、こんな状況なのにナニ考えているんだ、
そうすることになってるんだ、そうしないのはおかしい、
どんなに強い命令や指図をしても、善悪でとがめても、あり方や教えや常識で諭しても、その人の考えや、その人が思ったことを言っている。ただ単に自分が思ったことを言いたくて言っているか、あるいは、人に対して何か「欲しい」という思いがあって言っているか、どちらかだろう。
人間はそれしか言えない。
人間は事実を言えない。人間は真理を言えない。人間は思ったことしか言えない。

 ・・・(これも 僕の思ったこと)  つづく
人 間 観 | - | -