幸福な人生 快適な社会 4

 もう1つの要素、社会的要素としてあげたいのが、自由平等である。自由平等ということを否定したり、嫌ったりする人は殆どいないと思うが、自由とか、平等とか、言っても、その言葉の意味するところは、人によってずいぶん違いがあるから、私はあえて真の自由平等、あるいは完全な自由平等と言いたい。
 人類史上、ずいぶん古くから自由平等が叫ばれて久しいし、人類の歴史は自由平等を獲得する歴史だという人もいる。しかし、もう少し平易に考えてみると、自由や平等は獲得するようなものでなく、この世は、もちろん人間も含めて、もともと全てが自由平等だと思う。束縛や差別等は人間がいつの間にか作り出したものだと思う。
 今日の社会を見ても、自由を唱えながら、義務だとか責任だとか、押しつけたり、背負ったり、人間同士で不自由にし合っている。義務や責任を守らない自由を認めてしまったら社会が成り立たないとか、社会生活していくには守らなければならないことがあるとか、我慢や辛抱も必要だとか等々、それは自分勝手だ、わがままだ、してはいけないことだ、と互いに言いきかせて束縛し合っている。
自由を唱えながら、自由に暮らしていくには少しぐらいの不自由も必要だ、とその矛盾にも気づかず、本気でそう思いこんでいる人もいる。こんな滑稽な姿は誰でも判りそうなものだが、今の社会では公然とまかり通っている。
平等にしても、いろいろな会社や団体において、すべての人が同格で平等な組織があるだろうか。殆どすべてといっていいほど、どの組織にも人と人、部署と部署の間に上下があり、命令と服従がある。権限の多い人と、少ない人がある。これを指摘すると、組織というものは同列の人ばかりでは成り立たない。上下があってこそ意思統一がなされるとか、組織が成り立つのだという人もいる。
 しかし、これは、平等では社会が成り立たないと言っているようなものであり、平等を否定しているとも言えるのではないだろうか。
 以上述べたように、今日の社会では自由平等を尊重をしているとはいえども、その実際は非常に中途半端で、未熟不完全なものだと思う。もっというと、自由平等と言いながら、規制束縛と上下の命令服従で営まれている社会であるともいえよう。
 平等というと、だれもが同じような形にすることだと思いがちであるが、例えば大人と子供ではそれぞれに適した生き方があり、学校の先生と生徒、会社の経営者と現場担当者など、それぞれ違いがあって当然だし、同じようなことをするのが平等ではなく、一人一人に持ち味や役割の違いがあって、すべての人に上下がなく、皆同格ということだと思う。
先生が決めたことを生徒は守るべきだとか、経営者の指示には現場担当者は従うのが当然だというのではなく、上下のない同格ならば、果たしてどんな学校や会社になっていくだろう。
 人間には一人一人皆違う個性があり、肉体的にも精神的にもそれぞれの持ち味や能力があり、思想感情欲求など、みな違うし、この人は尊重したらいい、この人は尊重しなくていい、ということはない筈である。そうすると、真の平等とは、すべての人を尊重することだとも言えると思う。人を尊重するということには反対する人は少ないと思うが、実際の日常生活では、そんな考え方は許せないとか、そんなことを要求するのは許せないとか、その人そのものを認めようとしない例も随分あると思う。
 平等とはすべての人の思想感情欲求などを尊重し、また物質的要素でも述べたが、あらゆる物資を自由に使う機会が誰にでもあるということで、何かの決め事や、ある価値観で、その人の個性から出たものを抑圧するのは平等ではないから、束縛や押し付けのない状態、即ち自由な社会であってこそ、平等な社会も実現する。
 社会的要素について述べてきたが、機構制度を設け、それを運用するのは人間だから、人間の意識や考え方や心の状態によって、社会そのものが決まるといっても過言でないと思う。つまり、人間的要素で述べたように、上下感・優越感・劣等感などを解決することが、社会の自由平等を実現するには必要だということが、分って頂けると思う。
 ただ、物質的要素で掲げたように、だれもが欲しいものを欲しいだけ手に入れることができて、監視や束縛や抑圧がないに越したことはないが、果たしてそんなことで社会が成り立つものだろうか。皆が自由に好き放題のことをしたら混乱するに決まっていると、言う人も多いだろう。
 でも、そう思うのは監視や束縛や抑圧のいる今の社会を前提にして、想像するからではないだろうか。或いは今まで過去に、監視も束縛も抑圧もない社会を見たことがないから、そんな社会は無理に決まっているという諦め的な決めつけがあるのではないだろうか。
 ここに、人間というものをどう見るかという、人間観が重要になってくる。
 良識のあるまじめな人ばかりなら皆が自由にして暮らしてやっていけるだろうが、世の中はそんな良い人ばかりじゃない、悪いことをする人もいるから、うまくいく筈がないという人がいる。そこで、じゃあ、良い人とか、悪いことをする人はどうやってできるのか。その人が生まれてから育ってきた社会環境や周囲の人たちの影響が大きいのではないだろうか。
 悪いことをする人がいるから社会が悪くなったのか、社会が悪いから悪いことをする人ができたのか、どちらともいえないが、人間は悪いことをするものだとは言い切れないと思う。少なくとも、悪いことをしたくてしている人はいないと思う。悪いことをする必要がなくなれば悪いことをする人はなくなると思う。
 どうすればそうなるか、どうすればそういう社会になるか、それが本書の本題である。
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