幸福な人生 快適な社会 3

 次に、物質的要素を一言でいうと、物資の豊満である。これはいろいろな物が、大量に生産されて豊富に存在する、という意味もあるが、それだけではない。誰もが必要なだけ或いは欲しいだけ自由に使えることが理想だと思う。
空気や水のごとく、という言葉があるが、あらゆる物資が誰の許可も不要で、お金を払う必要もなく、空気のように自由に使える、というのは夢物語だろうか。非現実的だろうか。そういう世の中になれば、さぞ愉快だろうな、と私は思うが、本当に実現できないものかと考えてみたい。
 例えば、今日の先進諸国といわれる地域をみると、物はあり余るほど生産されている。しかし、世界中を見ると、物質的に貧しい国もたくさんある。また、同じ社会の中でも、貧富の差というものがある。
今の日本のように、物余り時代と言われる社会でも、満ち足りた豊かさを得ている人はどれほどいることだろう。物はいくら豊富にあっても、足りない思いや、満たされない気持ちは解消されない。
 貨幣経済の社会においては、物に乏しくて、物を必要としていても、お金がないと物を手に入れることができない。また逆に、お金さえあれば、必要でない物もいくらでも手に入れることができる。
 今の社会では、このようなことは当然とされているが、この貨幣経済の社会をこのままにしておいても、貧富の差はなくならないだろうし、豊満な社会にならないと思う。
 物資の豊満を実現するには、先に述べた人間的要素や後に述べる社会的要素も、必要になってくる。
 人と社会の問題になってくると思うが、例えば、働きの多い人も少ない人も、能力の高い人も低い人も、欲しい物が好きなだけ自由に使えるというと、そんなことは許せないと思う人もあるだろう。そんなことは不公平だという人もあるだろう。人は一人一人、持ち味や能力が違うのに、能力の高い人や力のある人が自由に使用できて、そうでない人はあきらめて辛抱することが、今の社会では当然とされている。これではとても動物的な社会だと思う。
 自然界の動物の世界でも、物が豊富にあれば、生存競争もなく穏やかに暮らせるのだろう。人類はかつて、物が少なく生存にもこと欠くような時代を体験したのだろうか。それ以来、生存競争が生まれたり、力の強いものが欲しい物を手に入れる、ということになったのだろうか。
 しかし、人間は自然界にあるものを採取するだけでなく、いろいろな物に作り変えたり、大量に再生産したりできるのだから、今の世の中のように、それぞれが力に応じて物を手に入れて、それぞれの囲いの中に蓄えたり、他から取られないように警戒したりしなくとも、人間全部が十分に使えるだけの物を生産し、自由に使えるようにすることの方が、よほど楽だと思うし、今の世の中のような苦労が要らないと思う。それぐらいの物量を生産し、世界中に流通さすことぐらいは、人間なら十分できる筈である。
 私が知っているだけでも、この数十年間の物質的進歩はすさまじいものがある。生産性の向上やそれによる物の増産、技術革新による機械や道具の開発やそれによる生活様式の変化などなど、これから先、人間は何を作り出し、どんな暮らしになっていくのか、予想だにできない。このような人間の能力を、もっともっと世界人類全体が豊かに暮らせるようにとの方向で力を合わせて励めば、ここに述べた物資の豊満は難しいことではないと思う。
 職業を持つ一人一人は、1日の大半を仕事に費やしているのだから、その目標、方向性を人類全体の豊かさに焦点をおくことだと思う。これは、その気になれば誰からでも、今すぐにでも、始められることである。
 日光や空気は、分け隔てなく誰もが得られる。能力の低い人も、働きの少ない人も、自由に好きなだけ得られる。あらゆる物資を日光や空気のように、というと、今の世の中では、考えにくいかもしれないが、人間の知恵と力によって、あらゆる物資を豊富に生産し、日光や空気のようにすることも可能だと思う。そうなれば、これは俺のものだとか、勝手に使ってはいけないとか、いちいち言う人はなくなると思う。
幸福な人生 快適な社会 | - | -