しゃかい ことはじめ 4

縛り・押し付けということを、もう少し突っ込んで言うと、更に根深く重大な問題が浮き彫りになってくる。
それは、外観上の束縛や強制がなくても、更に強い縛り・押し付けが実在しているということ。
どういうことかと言うと、常識とかモラルとか宗教の戒律なんかもそうだけど、ひとりひとりの中に教育や躾で、深く心の状態や観念の状態に形成されたものによって、自分で自分を縛っている、自分で自分に押し付けている、ということがある。
このようになると、社会そのものには、束縛や強制が無いかのように見える。形の上の束縛や強制の必要が無い社会や組織とも言える。
個々に植え付けられたものによって、自分で自分を縛り、自分で自分に押し付けていて、みんな自発的に積極的に自由に行動しているように見える。
そういう場合は、一見、とても美しい平和な社会や組織のようにも見える。みんなが、そういう固い観念や狭い心の状態になっているとか、誰かが縛っているなんて思わないし、もちろん、自分が自分を縛っているという自覚もない。
同じ思想やあり方で一致団結して、盛り上がる集団なんか、このたぐい。
こういう社会や組織で、そこに、もし、全然違う、それに反するような人が現われると、トタンに、その社会や組織の人たちから、忌み嫌われたり、攻撃されたりする。
まぁ、そういうことがあっても、自分が自分を縛ってるとか、自分が自分に押し付けているということに気付くことは、まず無い。
何か、やりたい・やろうと思うことを妨げられたら、縛られていると感じるが、自分からやりたい・やろうと思わない訳だから、まさか、縛られてるとか、押し付けられてるとは思わないだろう。

この辺の見究めとなると、やはり、外見上のものではなくて、その組織の内面、そこに住む人の内面の問題を観ることになる。
どこが違うかと言うと、人間の本能・本質的なものに沿って動いているなら自然であるが、そうではなくて、人間の考えで「こうだ」と決めている常識やあり方、モラルや教えなど、そういうものを固く持って、それによって動いている場合、自発的に積極的に自由にやってるようでも、やはり、自分を縛り、自分にそれを押し付けていると言えるだろう。思想とか 理念とか 考え方 などと言っても、みな同じ。(自縄自縛)
これらは、やはり、個人の問題ではなくて、そのようなものが、植え付くような、そのようなものを 植え付かせている社会や組織がある訳で、やはり、観念的なもので社会や組織が人を縛っている、人に押し付けていると言えるだろう。

最初の方でも言ったけども、縛りや押し付けを感じるとか感じないとか、そういうことではないということが先ず肝心。
感じるか、感じないか、じゃなくて、社会や組織、そしてそこに住む人の中に、縛りや押し付けが、あるかどうか、という観点で観ていくことで、縛りや押し付けを感じなくて自由にやっていると思っているけども、実際はどうか、という、社会や人の内面の実際を観ようとすることだと思う。
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