研究所サロンに参加して Ⅱ

 研究所サロンに参加して、「知る」ということだけで、これだけ盛り沢山の内容があるのかと少し驚いた。それにしても、人を<『知る』存在>とする捉え方は、何かとても刺激的だった。

 何も知らないで、自分ひとりでは何も出来ない状態で産まれてきた赤ん坊(人)が、スプーンの使い方や服の着方やおしっこの仕方などなど、いろいろ生きていくために必要なことを身につけていくということも、<知る>ということだ。言葉も<知る>ようになる。人は、<知る>ことで成り立っている存在とも言えるのではないか。

 もともと、人には<知る>機能が備わっている。多分触覚が一番先に、そして聴覚、しばらくして視覚というように、次々と<知る>機能が活性化していく。這い這いし出して、そこらじゅうのものをいじくり回したり、舐めたり、自分で歩けるようになって、言葉も覚え、外で遊ぶようになって、学校にも行って、仕事にも就いて、いろいろ<知る>。その過程で、気持や感情や考えなども<知る>とは言えないか。自分を<知る>。人を<知る>。社会を<知る>。人が成長する過程は、人がいろいろなことを<知る>過程とも言える。<知る>があってこそ、今まで生きて来れた。今の生活がある。

 もちろん、回りにいろいろな人がいて、またいろいろな物があって、いろいろなことや物を受けて育って来たとも言えるわけだ。服の着方や箸の使い方や、遊び方から勉強の仕方から仕事の仕方から、また言葉にしても、周りの人から受けてきたものだ。人はすべてを受けて育つ存在だ。すべて受けることで今がある。今の気持や感情や考え、そのもとの観念や心の状態なども受けたものと言える。

 このように、自分という存在は周囲社会からすべてを受けている存在という認識が、最近自分の中でも強くなってきてはいたが、きのうのサロンで佐藤さんの話を聞きながら「受けることは知ることだ」みたいなイメージが自分の中に出てきた。

 どのように受けたか、どのように受けるか、どのように知ったか、どのように知るか、そこに受け方知り方のテーマが出てくる。

 受けることで、知ることで「分かった」「知った」「知っている」となるのか、そうならないか、ここが分かれ目のようだ。「分かった」「知った」「知っている」が、人にもともと備わった<知る(あくまで知ろうとする)>機能を止める。知性の働きを止める。ここが、どんな自分になるかの分かれ目、ここが、どんな人生になるかの分かれ目、ここが、どんな社会になるかの分かれ目。

 <「知っている(と誤解する)」人が構成する社会>と<「知り得ない(という自覚を持つ)」人が構成する社会>との違い、<「知っている」人の観念の状態>と<「知り得ない」人の観念の状態>との違い、<「知っている」人の心の状態>と<「知り得ない」人の心の状態>との違い、何かそんなことも思った。
「知る」とは | - | -