⑦観点というもの

 観点というものについて、自分を観て検べる場合に限って考えてきたが、自分以外の対象(人や物や社会や事件など)を観る場合にも、観点を持たないで見たり聞いたり、また思ったり考えたりするということはほとんどないのではないか。

 観点という言葉を広辞苑で調べてみると「観察・考察するときの立場や目の付けどころ。見方。見地。『観点が違う』『観点をかえる』」とあった。人や物や社会を観たり考えたりする場合には、意識するしないに関わらず、何らかの立場に立っており、またその立場の違いによって目の付けどころも違ってくる。観え方聞こえ方捉え方が違ってくる。

 人が何かについて、それは何だろう、どういうことだろうと捉えようとするとき、そこには観点が要る。ある観点に立ってこそ、そのことについての思い考えが頭に浮かぶのだろう。研鑽は無固定前進の考え方と言う。その意味は研鑽の中では、この観点というものが固定されないということのように思う。今まで、研鑽というものについて、頭に浮かぶ表面の思い考え主張にとらわれないという程度の認識であったように思うが、その内実は観点が固定しないということとも言えるのではないか。観点が固定しないから、いろいろな観点から、いろいろな角度から物事を捉えられる。いろいろな角度から物事が浮き彫りになってくるから、いろいろな可能性も観えてくる。

 ここで研鑽の実現、言ってみれば観点を固定しないということは如何に実現されるかというテーマが出てくる。物事に対処するときなどには、自分の感覚であることの自覚の上に、さらに、その事を自分はどういう観点に立って、どう捉えているかということの把握(認識・自覚)が要るのではないか。

 ここまで来ると、ひとりではなかなか成され難いのではないか。多くの人(観点)の集まる研鑽会においてこそ、自分の観点の自覚や、いろいろな観点の可能性も生まれやすいのだろう。現実の組織の運営・経営において研鑽会が欠かせないというのも、案外この辺の理由からかもしれない。
観点というもの | - | trackbacks (0)

Trackbacks